私大や国公立前期試験で8割取るための世界史~大学受験・高校受験・中学受験にも役立つ(5)
第2章 アジア・アメリカの古代文明
3 中国の古典文明
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東アジアの風土と人々
東アジアとは,現在の中国を中心に,朝鮮半島・日本などをふくむユーラシア大陸東部地域をいう。この地域の大部分は温暖で雨量も多い季節風(モンスーン)地帯にあり,古くから畑作・水田作などの農耕が発達した。一方,東アジアに隣接する北方の草原・砂漠地帯には遊牧で生活する人々が居住しており,彼らとの交易や戦争は,東アジアの農耕民の生活に大きな影響をあたえた。東アジアは,自然も多様で人口密度も高い地域であるが,漢字や儒教,仏教など共通の文化によって結ばれた世界を保ってきた。
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中国文明の発生
前6000年ころまでに,黄河流域ではアワ・ヒエなどの雑穀,長江流域では稲を中心とする農耕がはじまっていた。前5000~前4000年ころには,黄河中流域に,彩文土器(彩陶)を特色とする仰韶文化がおこった。同じころ,長江中・下流域でも,水田をともなう集落がつくられていたことが明らかになった。前3千年紀①になると,黄河下流域を中心に,黒色磨研土器(黒陶)を特色とする竜山文化が成立した。黒陶は長江下流域から遼東半島にまで分布しており,地域間の交流が緊密になっていたことを示している。また、長江下流域には、前5000年~前3000年に新石器文化が成立しており、河姆渡遺跡などの発見による長江文明が起こっていたことがわかっている。なお、長江文明には、前3300年~前2200年頃の浙江省を中心とした新石器段階の良渚文化、上流の四川地方に独自の発展をした青銅器文明である三星堆文化が最近注目を集めている。
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初期王朝の形成
中国の最初の王朝。『史記』では三皇五帝に次いで禹が建国したと伝え、殷に滅ぼされたとされている。その実在は疑われていたが、最近は考古学上の発見が相次ぎ、中国では実在した最初の王朝として公認されている。日本の学会では、青銅器文化の二里頭文化の時期に該当するが、甲骨文字が出土していないので国家の発生とは認めておらず、依然として殷を最古の王朝としている。司馬遷の『史記』では三皇五帝に次いで出現し、殷(商)王朝に先立つ王朝とされる。その始祖の禹(う)は、黄河の治水に功績があり、先帝の舜から天子の位を譲られたという。最後の天子の桀は暴君であったため人心が離れ、湯王に倒され殷王朝に交代したという。日本においては、夏王朝の存在は甲骨文字などの文字資料が出土していないので否定的な意見が強く、伝承上の王朝とされている。
前3千年紀の黄河中・下流域では,洪水をさけるため台地の上などに集落(邑)が形成された。小集落は城壁でかこまれた都市国家へとしだいに成長し,やがてそれらを統合・支配する王朝国家が成立した。(日本では)現在確認できる最古の王朝は殷(商)で②,発掘された都の殷墟(河南省安陽市)からは,甲骨文字を刻んだ大量の亀甲・獣骨や,王墓および宮殿跡が発見された。殷は,多くの邑が連合・従属する形で成立した国家で,王が神意を占って農事・戦争などの重要事項を決定する神権政治がおこなわれていた。漢字のもとである甲骨文字は占いの記録に使われたものであり,出土した青銅器の多くも,神に対する祭りの際にもちいられた。
渭水流域に成立した周は殷に服属していたが,前11世紀ころ殷を倒し,鎬京(現在の西安付近)に都をおいた。周王は一族・功臣や各地の首長に領地(封土)をあたえて諸侯とし,軍役と貢納を課した。また王や諸侯につかえる・大夫・士とよばれる家臣にも地位と領地があたえられ,農民の支配がまかされた。このような周の統治のしかたを「封建」とよぶが,この統治制度は血縁関係を基礎としていたため氏族ごとのまとまりが重要であり,親族関係の秩序や祖先の祀りかたなどを定めた宗法がつくられた。
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春秋・戦国時代
周の西北には漢民族から見た異民族の犬戎(けんじゅう)や狄(てき)が活動していた。前8世紀頃から次第に活発となり、周の西北を侵し始め、犬戎が鎬京を攻撃し、周の幽王を殺害した。そのため前770年には周王室は東遷し、洛邑に移った。それ以後,周の勢力はおとろえ,前3世紀まで分裂と抗争の時代が続いた。この時代は,前5世紀末までが春秋時代と呼び、前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂してからを、それ以前の春秋時代と区別する時代呼称として、それ以後が戦国時代とよばれる。
春秋時代の有力諸侯は周王を尊重し,その権威のもとで他の諸侯に優越する地位をえようとした。しかし,諸国間の抗争が激しくなるにつれ,周王を無視してみずから王を称する諸侯がふえ,やがて戦国の七雄とよばれる七つの国が有力となった。一般に、韓/魏/趙/斉/燕/楚/秦の七国を言う。
春秋・戦国時代は分裂の時代であったが,一方で農業や商工業が発展し,各国の領土拡大によって中国文化圏も拡大した時代であった。春秋時代の中期以降,鉄製農具や牛を利用した耕法(牛耕)の普及により農業生産力が高まった。鉄製の農具は、それまでの磨製石器に代わって普及し鍬や鎌が農耕だけでなく、牛耕農法を可能にし、開墾、水利土木工事にも使われ、農業生産力を飛躍的に増大させた。戦国時代になると鍛造の技術も開発され、武器にも利用されるようになった。農業生産力の向上は、手工業をも発展させ、さらに貨幣経済へと社会を導いていく。戦国時代には各国で青銅貨幣が鋳造されるようになる。また各国の富国策により経済が成長し,青銅の貨幣も使用されるようになった。こうした社会の変化により周代の身分制度はくずれ,実力主義の時代となった。
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新しい思想の誕生
社会の変化に対応するために多様な新思想もうまれ,諸子百家と総称される多くの思想家や学派が登場した。
春秋時代末期の孔子は,家族内の秩序や愛情が天下に広がれば,理想的な社会が実現されるとした。彼の学派を儒家といい,彼の言行は『論語』に記録され,その思想は,性善説を主張した孟子、彼は当時盛んだった儒家と墨家の論争を克服しようと試み、体系的な国家統治論を作り上げた。その基本には性善説(人間の本性を善とする)にたち、外界からの誘惑に負けない「浩然の気」を養うことをあげ、君主の徳を説き(徳治主義)、周の井田法(1里四方の土地を9等分し8区を8家族に分け与え、残る1区を公田として共同で耕作するというもの。孟子の書物に出てくるが周で実際に行われていたかどうかは不明)を理想の社会とし、人心から離れた君主は革命によって倒されるという易姓革命説を打ち出した。
性悪説を主張した荀子らにうけつがれていった。荀子は、儒家の思想家だが、斉、秦、楚などを巡り、諸子百家の説を総合する体系をつくった。孔子、孟子の説を発展させたが、孟子の性善説に対しては性悪説を採り、人間の本質は悪であるので、礼の理念を体得した聖人によって国家が統治されることが必要と説いた。その思想を継承した韓非などにより法家の思想が生まれてくる。
それらに対して、墨子は,孔子の説く愛に反対して,血縁をこえた無差別の愛(兼愛)を説いた。墨子は、孔子の仁の思想をさらにすすめ、利己主義や家族愛、郷土愛、国家愛などの差別的な愛を捨てて、普遍的な愛を説いた。それを兼愛説という。また戦争を社会の財貨を破壊するものとして否定し(非攻)、賢者を尊び(尚賢)、政治に登用すること、衣食住での徹底した節約(節用)などを説いた。戦国時代にの争乱を否定する彼の思想は、一時たいへん流行し、多くの弟子が出現し、一種の宗教団体のようになったという。
また儒家の道徳重視に対し,商鞅・韓非らの法家は,強大な権力をもつ君主が法により統治をおこなうべきだと主張した。特に、商鞅は、秦に亡命し孝公に仕え、前359年、「商鞅の変法」といわれる改革を実施した。そのねらいは徹底した富国強兵策を、法の強制によって推進しようとするものであり、それに成功した秦は戦国末期に国力を増強し、他の諸国の中で最も有力な国となる基盤をつくった。一方,老子・荘子を代表とする道家は人為的な道徳・儀礼を排して,あるがままの状態にさからわない無為自然を説いた。その他,兵法を講じた兵家(孫子),外交策を講じた縦横家(蘇秦・張儀),天体の運行と人間生活の関係を説いた鄒衍による陰陽家、公孫竜の名家(論理学)どがあらわれ,多様な分野で思想・学問の基礎がきずかれた。
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秦の統一
戦国の七雄の一つである秦は,前4世紀に法家の商鞅の改革で国力をつけ,他国を征服して前221年に中国を統一した。秦王の政は,それまでの「王」にかえて「皇帝」の称号を採用した(始皇帝)。始皇帝は,中央から官吏を派遣して各地を統治させる郡県制を全国に施行し,貨幣・度量衡や文字を統一した。さらに民間の書物を実用的なものをのぞいて焼きすて(焚書),儒者を生き埋めにする(坑儒)といった思想統制をおこなうなど,中央集権化をおしすすめた。
また北方遊牧民の匈奴の侵入を防ぐため,戦国時代につくられた長城を修築し,南は華南を征服して南海(現在の広州)など3郡をおいた。しかし遠征や工事などの負担を強制された人々の不満は高まり,始皇帝の死後まもなく各地で反乱(陳勝・呉広広の乱)がおこり,秦は統一後わずか15年でほろんだ。その後、天下を項羽と劉邦が争い、垓下の戦いで勝利した劉邦が前202年に皇帝となり、漢王朝を開くことになる。
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漢代の政治
秦末の混乱のなか,庶民出身の劉邦が楚の名門出身の項羽を倒し,前202年中国を統一して皇帝の位につき(高祖),長安を都に漢(前漢)王朝をたてた。漢ははじめ郡県制と封建制を併用する郡国制を採用したが,漢の第6代景帝の即位後、前154年に、有力な諸侯王国のうちの、呉・楚・趙など、中国東南部の七国が、中央政権に対して連合し、挙兵した内乱が起きた。各国の王は劉氏一族で高祖によって国王として封じられた者の子孫であった。当時の中国を二分する内乱となったが、彼らが中央政府に反発したのは、中央政府が諸侯王の封地を削減して皇帝の直轄地を拡大しようとしたからであった。しかし反乱はわずか三ヶ月で失敗し、鎮圧された。それを境に漢帝国の諸侯抑圧策は強化され、次の武帝の時代には郡県制がさらに拡大され、実質的な中央集権体制となった。
前2世紀後半の武帝は多くの対外遠征をおこない,北方では漢を圧迫していた匈奴を衛生と霍去病らにより撃退した。その際,張騫を中央アジアの大月氏に派遣したことをきっかけに西域の事情が判明し,漢の勢力は西方に拡大していった。東北では、衛氏朝鮮の右渠を討つこととし、前108年、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪などの4郡をおき支配した。南方では、南越の内紛に乗じて討伐に着手、10万の大軍で都(現在の広州市)を征服して前111年、南越は滅亡した。これによって、広東・広西両省からベトナム北部に及ぶ広大な地域が漢の直接支配下に入り、九つの郡が置かれることとなった(南海九郡という)。その中のベトナム北部には交趾、九真、日南の三郡がおかれ、漢人の太守が派遣され、ベトナム北部までを支配した。
こうした戦費で漢は財政難におちいり,武帝は塩・鉄・酒の専売などの経済統制や均輸法・平準法による物価安定策など一連の財政改革を行い、更に、それらの前提となる貨幣の安定的流通のために五銖銭を発行したが,成功しなかった。武帝の死後,哀帝の時、限田策として大土地所有制限法が施行されたが、上手くいかず、その後、皇帝の側近である宦官や外戚③が争って政治が混乱すると,1世紀初めに外戚の王莽(正確には、草冠の下が大ではなく、犬です)が皇帝を名乗り,新をたてた。
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新の成立と漢の再興
新は急激な改革をおこなったため各地で反乱がおこり,赤眉の乱が起こり、後23年にほろんだ。混乱のなかから漢の一族の劉秀があらわれ皇帝(光武帝)となって漢を再興し(後漢),洛陽に都を移した。後漢は当初内政に力を入れたが,やがて西域に進出し,1世紀後半,班超は中央アジアのオアシス地帯の支配に成功した。秦・漢の時代に皇帝を頂点とした中央集権国家ができ,この統治体制はその後の約2千年間,中国の国家体制の基本となった。また周辺地域に対しては,各地の首長に王などの称号をあたえて,「中華皇帝」を頂点とする国際秩序④に組み入れた。
しかしその後,官界に進出した豪族勢力と,宦官や外戚との対立から政治は乱れた。また、宦官と儒学の学徒である官僚とが対立し、党錮の禁が起き、宦官勢力が党人を弾圧、多数を殺害し公職から追放した。その後も宦官が政治の実権を握る状況が続き、後漢王朝衰退の要因となった。さらに2世紀末に太平道という宗教結社を主体とした黄巾の乱がおこると,各地に軍事集団が割拠して,220年に後漢はほろんだ。
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漢代の社会と文化
春秋・戦国時代に氏族制度がくずれ,農業は5~6人程度の小家族によっておこなわれるようになり,秦や漢は官僚をもちいて,そのような農民たちを直接支配した。しかし,漢代には重税や兵役のために土地を売って没落する農民も多く,一方で,こうした土地を買い集めて,農民を奴隷や小作人として働かせる豪族が地方で勢力をのばした。さらに武帝時代には、地方豪族の子弟が推薦されて中央の官吏となる郷挙里選といわれる官吏登用法が採用され、豪族は,地方長官の推薦によって官僚となり,国の政治に進出するようになっていった。
人々を統治する基本的な思想として,秦代以降法家の思想が採用されていたが,武帝の時代に出た董仲舒の意見により,儒学が国家正統の学問に採用され、その際、儒学の根本の経典である『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』を五経として定め、それぞれの経典ごとにその教義の解釈、教授、普及を担当する学者を官職として五経博士を任命した。また儒学の経典の字句解釈をおこなう訓詁学もさかんになった。また後漢の時代に、蔡倫により製紙技術が改良されて,従来の竹や木にかわり紙の利用がしだいに広まった。前漢の司馬遷が『史記』,後漢の班固が『漢書』という歴史書を紀伝体⑤でしるし,後世に大きな影響をあたえた。
①千年紀は1000年を1単位とする時代区画。前3千年紀とは,前3000~前2001年のあいだをさす。
②伝説では,夏が中国最初の王朝とされるが,王朝の所在は確認されていない。
③皇后や妃の親族。皇帝の後見役として,権力をにぎることがあった。
④中華帝国を中心につくりあげられた国際秩序に,朝貢と冊封がある。朝貢は,周辺国の首長が,中華皇帝に貢物をもった使節を送り,中華皇帝が返礼品をあたえること,冊封は,中華皇帝がその首長に相応の称号をあたえることをいう。貢物と返礼品の贈答には,交易という面もあった。
⑤帝王の年代記(本紀)や著名な人物の伝記(列伝)を中心とした歴史書の形式。中国の歴史書のもっとも基本的な形となった。
【人物コラム】
▼始皇帝 前259~前210
始皇帝に関しては,秦王室の血を引いていないとする風説や,「恩愛の情に欠け,残忍な心の持ち主」という人物評がなされるなど,悪意をもってえがかれることが多い。その一方で,中国統一を成功させた彼の功績や強力な思想統制策を評価する意見も根強い。
▼武帝 前156~前87
前漢の第7代皇帝。200年ほど続いた前漢時代において,54年という長期にわたり皇帝の座にあった。中国の皇帝は,生前の治世を考慮した名である諡号がおくられるが,武帝とは武力によって領土を拡大した皇帝に対する諡号である。
【地図・図版】
▼東アジアの地勢と中国文明
▼封建制のしくみ
▼戦国時代の中国
▼秦・前漢時代のアジア
漢代は秦代より領土が拡大した。とくに,黄河の西から敦煌にいたる,砂漠と山脈にはさまれたせまい平地部は河西回廊とよばれ,中国と西方世界を結ぶ要路となった。
▼漢があたえた印章
漢は周辺国の首長に印章をあたえ,形式的な君臣関係を結んだ。印章の材質やつまみの形状などには,国によって違いを設けた。
【写真キャプション】
▼彩陶と黒陶
彩陶は素焼きの土器に文様をつけたもの。黒陶はより高温で焼き,ろくろを使用したために,薄手になったものである。
▼黄土地帯の段々畑
黄河流域は,内陸の高原・砂漠地帯から風にのってはこばれた黄土の堆積した地域であることから,黄土地帯とよばれている。
▼甲骨文字の刻まれた獣骨
亀の甲や動物の骨を火であぶり,できたひび割れで占った。その結果をしるしたものが甲骨文字である。
▼殷の青銅器
表面には,呪術的な力をもつとされる獣面の文様の浮き彫りがほどこされている。祭器としてもちいられた。
▼牛耕図(画像石)
牛に鼻輪をつけ,鉄製の犂を引かせ耕作する。画像石とは,表面に図柄が彫られた石材のこと。
▼布銭
▼半両銭
▼刀銭
▼青銅の貨幣
戦国時代に各国でもちいられた貨幣。刀(刀銭)や農具(布銭)の形をしている。その後,秦の始皇帝は円形方孔の半両銭に統一し,以後貨幣の形は円形が基本となっていった。
▼孔子
▼老子
▼兵馬俑
始皇帝の陵墓の近くで発掘された,数千体におよぶ等身大の陶製の人馬像。始皇帝の墓をまもる近衛兵団とみられる。
▼宦官
去勢された男性で後宮につかえた。皇帝の周辺にいたことから権力をにぎることがあった。写真は清末の下級宦官。
▼黄巾の乱
太平道の指導者張角は,五行思想にもとづく黄色い頭巾を頭にまいて挙兵した。この乱の残党をひきいて,華北統一に成功したのが曹操であった。
▼司馬遷
▼漢代の豪族の屋敷
豪族は大土地所有者であり,広大な屋敷に住み,多くの小作人を使用していた。図は画像石の拓本。
▼竹簡
紙の普及以前は,細長い木片・竹片に文字を記し,結びあわせた。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。 |
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