共通テストで満点をとるための世界史講義 世界史講義⑤ ゲルマン人の大移動から封建・荘園制度
〔76〕ゲルマン人の大移動
中世ヨーロッパとはローマ帝国滅亡からルネサンスの始まりまでの約1000年間をいう。バルト海沿岸にいたゲルマン人が先住民ケルト人を圧迫し、ライン川から黒海沿岸にかけて進出。この時代の史料としては、カエサルの「ガリア戦記」、タキトゥスの「ゲルマニア」がある。当時のゲルマン人の社会では、重要な問題は民会で決定され、平民と奴隷が区別され、狩猟・牧畜を行っていた。ローマ帝国内に傭兵やコロヌスとして平和に移住していたが、アジア系のフン族がアッティラ王に率いられ、西進し、東ゴート人をのみこみ、西ゴート人を圧迫した。その結果、ゲルマン人が大移動を始めた。西ゴート人(最も早く移動を開始)が西ゴート王国をイベリア半島に建国し、東ゴート人が東ゴート王国をイタリア半島に建国、ヴァンダル人はヴァンダル王国を北アフリカに建国、ブルグント人はブルグント王国をガリア島南部に建国。ランゴバルド人はイタリア北部にランゴバルド王国を建国。アングロ=サクソン人はイングランドにアングロ=サクソン七王国を建国、フランク人はガリア北部にフランク王国を建国。フン族の西進をゲルマン諸民族と西ローマ帝国が、カタラウヌムの戦いで阻止。この混乱の中、西ローマ帝国はゲルマン人のオドアケルにより滅亡。
〔77〕フランク王国
ゲルマン人のうち、北部ガリアに移動したフランク族が建国。メロヴィング朝のクローヴィスがフランク族をまとめ481年に王国の形に整える。クローヴィスはアタナシウス派に改宗し、キリスト教正統派に改宗することで、旧ローマ帝国領内の人々の支持を得た。王に代わり、大臣のトップ「宮宰」が権力を掌握する。宮宰カール=マルテルが、732年、トゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム教国ウマイヤ朝を倒す。カール=マルテルの子、ピピンがカロリング朝から王位を奪い、751年にカロリング朝を創始する。ピピンはランゴバルドを攻め、ラヴェンナ地方を獲得し、756年にローマ教皇へ寄進し、クーデターの承認を受ける。これが教皇領の始まりとなる。
〔78〕カール大帝
カロリング朝はカール大帝の時、大きく勢力を拡大し、東は、アヴァール族(モンゴル系)を撃退し、南のランゴバルト族を征服、西は後ウマイヤ朝と戦う、北は、ザクセン族を征服した。全国を州に分け、伯に統治させ、巡察使を派遣し、伯を監視させた。カール大帝は文化を保護し、イギリスの神学者アルクィンを招き、カロリング=ルネサンスを起こす。800年に、ローマ教皇レオ3世から皇帝の冠を授かる(西ローマ帝国の復活を意味する)。カール大帝の子の死後、ヴェルダン条約とメルセン条約の二つの条約により、フランク王国は、東フランク、西フランク、イタリアの三カ国に分裂する。
東フランク王国のオットー1世が、955年にアジア系のマジャール族をレヒフェルトの戦いで撃退し、ローマ教皇ヨハネス12世から962年に皇帝の冠を受け、以後は神聖ローマ帝国と名乗り、王は皇帝と呼ばれる(962~1806年)。西フランク王国では、ユーグ=カペーが、987年にカペー朝を開き、以後はフランス王国を名乗る。
〔79〕ノルマン人の移動
スカンディナヴィア、ユトランド半島で商業や海賊行為など略奪行為で生活していたヴァイキング(ノルマン人)が、北フランスにロロが西フランク王から領地を貰い、ノルマンディー公国を成立させ、南イタリア、シチリア島では両シチリア王国を成立、イングランドでは、ゲルマン系のアングロ=サクソン七王国のエドバードが統一し、イングランド王国を建てていたが、ノルマン系のデーン人が侵入。一旦はイングランゴ王国のアルフレッド大王が撃退するものの、クヌートが再び侵入し、デーン朝が成立した。その後、再びノルマン人が侵入し、ノルマンディー公ウィリアムが、1066年、ヘースティングスの戦いで、イギリスを征服し、ウィリアム1世として即位し、ノルマン朝が成立する(イギリス建国の年とされる)。これをノルマン=コンクエストという。ロシア方面では、リューリクがノヴゴロド国を建国し、後にスラヴ人と混ざり、キエフ公国となる。北欧では、デンマークやスウェデンヤノルウェーの3王国が成立する。
〔80〕スタヴ人の拡大
ゲルマン人の大移動後、スラヴ人は、東ヨーロッパに拡大し、カルパティア山脈を原住に東西南に拡大し、西スラヴ人として西欧文化とローマ・カトリックを受容。東・南スラヴ人はビザンツ文化とギリシア正教を受容した。
西スラヴ人は、カジメシュ大王の下でポーランド王国として繁栄し、その後リトアニアと併合し、リトアニア=ポーランド王国(ヤゲヴ朝)として成立する。チェック人は、ボヘミア辺りにベーメン王国を建国するが、後に神聖ローマ帝国に編入される。
東スラヴ人は、ノルマン系の国家をリューリクがノヴゴロド国として建国したが、次第にスラヴ化していき、キエフ公国となる。最盛期はウラディミル1世で、ギリシア正教に改宗。モンゴル帝国時代に、バトゥがキプチャク=ハン国を建国し(タタールのくびき)、その後モスクワ大公国として、イヴァン3世が、ツァーリと称して、モンゴルの支配から脱し、とイヴァン4世(雷帝)が正式にツァーリと称する。
南スラヴ人では、セルビア人がギリシア正教、クロアティア人やスロヴェニア人はカトリックを受容した。
非スラヴ人としては、ブルガール人やマジャール人がおり、マジャール人はハンガリー王国を作った。
〔81〕キリスト教会の分裂
キリスト教の3大宗派は、ローマ=カトリック、東方正教会(ギリシア正教)、プロテスタント。五本山として、ローマ教会、コンスタンティノープル教会、アレクサンドリア教会、アンティオキア教会、イェレサレム教会の五つがキリスト教の中心となる。その中で、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が力を持ち、主導権を争う。
ローマ教皇のグレゴリウス1世(大教皇)は、ゲルマン布教を行うなどして、教会の基礎固めを行う。その後、ローマ教会はゲルマン布教に聖像を使用することとなり、コンスタンティノープル教会はローマ教会を批判し、ビザンツ皇帝レオン3世は聖像禁止令を出し、ローマ教会に対抗。ローマ教会とコンスタンティノープル教会は完全に分裂し、ローマ教会は、ローマ=カトリックと名乗り、コンスタンティノープル教会はギリシア正教と名乗ることとなった。ローマ=カトリック教会は、ピピンのクーデタを承認し、代わりにラヴェンナ地方を得て、レオ3世がカール大帝に皇帝の冠を与えるなどして体制強化していく。
〔82〕封建制度
中世ヨーロッパの主従関係の在り方を封建制度といい、土地を媒介とした総務的契約関係を特徴とする。主君は家臣に封土(土地)を与え、家臣は主君に軍役で答える。その関係は双務的契約関係であり、家臣からも、主君からも契約を切ることが出来る。二人の主君に同時に仕えることもできた。
起源は、ローマ帝国で行われた恩貸地制(主君は家臣に土地を与え、家臣は主君に奉仕で応じる。)とゲルマン社会で行われた従士制(主君は家臣に食料などを与え、家臣は主君に軍役で応じる)が混合し、中世ヨーロッパにおける封建制度が成立した。
〔83〕荘園制度
領主は、国王であったり、諸侯であったり、騎士であったり、聖職者であった。封土を荘園として経営し、農民が農奴とされた。荘園は、領主直営地と農民保有地から構成され、領主直営地は収穫の全てを領主に収め(労働地代=賦役)、農民保有地は収穫の何割かを領主に税として納めた。これを生産物地代=貢納という。税は、賦役貢納の他に、死亡税、結婚税、教会に支払う十分の一税などがあった。主君は家臣に土地を渡し、軍役を受けるが、一度主君が土地を与えたら、主君は口出しできず、これを国王に対する不輸不入権(課税権、行政権、裁判権を拒否)といわれた。10世紀以後は三圃制が採用され、土地を、春耕地、休耕地、秋耕地に分け、回していった。
〔84〕教会の権威(カトリック教会)
教会では、教皇-大司教-司教-司祭などの階層性組織(ヒエラルキー)が形成されていったため、教会が領主化していった。また。教会の領主化(国王や貴族からの荘園寄進による)や農民からの十分の一税により、財政と権力が集中した。聖職者売買など教会の腐敗が始まり、ローマ=カトリック教会の世俗化していった。こうした教会の腐敗に対し、修道院による教会の改革運動が行った。代表的な修道院としては、ベネディクトゥスがイタリアのモンテ・カシノに初の修道院として、ベネディクト修道院(6C)を開いた。「祈れ、働け」がモットー。また、クリューニー修道院の運動が勢いづき、教会内部の腐敗追放運動が行った。こうした状況下で、聖職者の任命権を巡り、教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の間で叙任権闘争が生じ、教皇が皇帝を破門した。ハインリヒ4世が教皇に謝罪するため、カノッサ城門前で三日間雪の中で謝罪し破門を解かれた。これをカノッサの屈辱という。王権に対する教皇の優位を決定づけた。後にヴォルムス条約で、司教の教権(儀式を行う権限)は教皇、俗権(領地を治め、徴税する権利)は皇帝が任命するという取り決めがされた。その後、教皇インノケンティウス3世(13C初期)の頃、教皇権は絶頂に達し、自ら「教皇は太陽、皇帝は月」であると言い放った。第4回十字軍を提唱し、イギリス王ジョンを破門し、仏王フィリップ2世を屈服させた。
〔85〕ビザンツ帝国の繁栄
ローマの東西分裂により成立したビザンツ帝国は都をコンスタンティノープル(ビザンティウム)とし、貿易として発展した。独自の文化圏を形成し、ローマの伝統を継承に加え、ギリシア正教を信仰した。皇帝が政治と宗教の権力を握る皇帝教皇主義が取られた。最盛期は、ユスティアヌス帝で、ヴァンダル王国(北アフリカ)と東ゴート王国(イタリア)を征服し、最大領域を達成した。トリボニアヌスにより「ローマ法大全」が編纂された。聖ソフィア聖堂が建設された。中国から養蚕業を導入し、以後ササン朝と抗争し、イスラーム成立の原因となる。ヘラクレイオス1世の時代に、帝国をいくつかの軍管区に分け、司令官を派遣し、統治する軍管区制が採用された。また、農民に土地を与え兵役義務を課す屯田兵制が整備され、中央集権化が図られた。レオン3世は、聖像崇拝論争において、726年に聖像禁止令を出した。これが原因となり、カトリックとギリシア正教の分裂の原因となった(1054年にローマ教会とギリシア正教は互いに破門しあった)。
〔86〕ビザンツ帝国の衰退・ビザンツ文化
ビザンツ帝国は、11世紀にはセルジューク朝が侵入し、西方社会に救援を求め、十字軍のきっかけとなる。また、軍役奉仕を条件に帰属に領地を与えるプロノイア制を導入。第4回十字軍の攻撃の際、コンスタンティノープルを攻略され、ラテン帝国を作られ、一時期滅亡した。その後、復興するも、1453年にオスマン帝国のメフメト2世による攻撃を受け、滅亡する。ビザンツ文化では、ギリシア語を公用語とし、ローマの伝統とギリシア正教の融合が進んだ。建築では、ビザンツ様式の代表としては、聖ソフィア聖堂があげられるが、ドームを複合させることとモザイク壁画が特徴的であった。美術では、イコン美術(聖母子像)が発展。ビザンツ文化の重要な意義としては、ギリシア・ローマの古典文化を保存、継承し、ルネサンスに影響を与えたことである。
〔87〕十字軍
中世ヨーロッパ中盤(11~13世紀)において、キリスト教徒がイスラーム教徒に対して、7回の遠征を行った。民族移動の動揺が収まり、三圃制などの農法の改良により、中世社会が安定化し、人々の関心が外へ向かう余裕が生まれた。ドイツのエルベ川以降の東方植民やレコンキスタが盛んになる。セルジューク朝がイェレサレムを独占し、ビザンツ帝国を圧迫したため、ビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世が1095年にローマ教皇に支援を要請し、同年、クレルモン宗教会議で、教皇ウルバヌス2世が聖地イェレサレム奪還のため、十字軍の派遣を決定。
第1回十字軍は聖地奪還に成功し、イェレサレム王国を建国。第3回では、アイユーブ朝のサラディンが1187年にヒッティーンの戦いで、イェレサレムを占領したのに対し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)、フランス王フィリップ2世(尊厳王)、イギリス王リチャード1世(獅子心王)が戦うが、失敗。1192年に講和した。その後、第4回は、教皇インノケンティウス3世が提唱するが、ヴェネツィア商人の要求でコンスタンティノープルを攻撃され、1204年にラテン帝国が建国された。第6回、第7回ではフランス王ルイ9世が中心となるが、失敗する。最終的には、1291年に十字軍の拠点アッコンが陥落し、十字軍は終了した。十字軍の影響として、教皇の権威が低下する一方、国王の権威が上昇した。また、ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団などの宗教騎士団を成立させた。
〔88〕商業の復活
十字軍は結果的に失敗に終わったが、ヒト・モノの交流が盛んになり、商業が発展し、遠隔地交易が行われるようになった。これを商業ルネサンスと呼ぶ。地中海商業圏(北イタリア)の中心都市としては、港町として、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサが発展し、内陸部ではミラノやフィレンツェが発達した。これらの町は、ロンバルディア同盟を結成し、香辛料を扱うアジアとの東方貿易で繁栄した。ロンバルディア同盟は、1176年レニャーノの戦いでフリードリヒ1世の軍を破り、1183年にコンスタンツの和議で皇帝に自治を認めさせた。北ヨーロッパ商業圏(バルト海沿岸)では、中心都市としてリューベックやハンブルグ、ブレーメンがハンザ同盟を結成し、ガン、ブリュージュ、アントウェルペンなどのフランドル地方の都市で生産された毛織物の交易で発展した。アルプス山脈以北のシャンパーニュ地方では、ヨーロッパの南北を繋ぐ内陸都市が隆盛し、定期市が設けられた。そのほか、ヨーロッパ内陸の南ドイツ商業圏(アウクスブルク)も発展した。
〔89〕中世都市の成立と自治と市民たち
封建領主の領内で都市が発生し、都市は領主が支配しようとするものの、都市は支配に抵抗し、王から特許状を得て自治都市となった。都市は封建領主の領内にありながら、王に直接所属していることとなり、領主の支配を受けなかった。農奴は都市に逃げ込み、1年と1日逃げ切れば、封建領主から自由になれた(12C頃)。そのため、都市の空気は自由にする、といわれた。遠隔地交易、情報共有、価格操作のため、同じ仕事を持つ人々の組合(同業者組合)である商人ギルドが形成された。手工業者による同職ギルド(ツンフト)も結成され、商人ギルドと争うツンフト闘争(13C)が行われたが、次第に協力し合う。同職ギルドの組合員になれるのは親方に限られ、厳しい上下関係があった。こうした経済力の向上により、都市貴族が誕生した。アウグスブルクのフッガー家やフィレンツェのメディチ家などがある。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |